俳句について その10

何度も言うように、私は「伊藤園 新俳句大賞」のファンである。

どんな世界でも、保守と改革はいつもせめぎ合っている。

古き良き伝統を守り、引き継ごうとする人たちと、新しい道を

切り開き未来へ繋ごうとする人たちは、どこにでもいて、

時には相反し争いとなることも珍しくはない。

 

例えば落語の世界でも、保守派で古典落語を重視する

団体「落語協会」から、新作落語を重視する人たちが分かれ、

落語芸術協会」を作ったし、そもそもの落語家の人間的古さを嫌って

立川流」などという団体を立ち上げた談志などという人物もいる。

 

私は俳句の中では「改革派」の人間である。

伊藤園 新俳句大賞」が目指すような方向性が、これからの

俳句の主流となる在り方だろうと思うのである。

しかし、これは、どちらが良くて、どちらが悪いという話ではなくて、

時流があり、時代に合わせる部分と、時代を超えて引き継がれる

ものが混在するということだけは、どんな世界でも、どんな時代でも

変わらぬものなのであろう。

 

俳句について その9

昨日も言ったように、私は「伊藤園 新俳句大賞」の入選全句について、

いつも自分なりの「批評文」を書いている。

主催者や作者の了解なしに、この入選句をここで引用するのは、

本来ルール違反で、もしかしたら法的にも違反なのかもしれないが、

ネット上にも公開されている句であり、何の影響力もない私のような人間が

書いたところで、誰も咎めないと思うので、一回だけ私の見解を

ここに披露してみる。 むしろこの「大賞企画」を応援することに

役立ってもらえることを希望するものである。

もちろん作者のコメントや審査員の批評を読む前に書いたものである。

 

これは昨年の最優秀賞を得た一句である。

猫の載るヘルスメーター文化の日   (27歳)

私の批評文

「ヘルスメーター」とは、載るだけで体重だけでなく、体脂肪率など健康状態を知るためのいくつかの数字を表示できる器具で、今は大抵の家庭にある便利な道具だ。

健康は生きている者なら誰でも、そうありたいと願い、日ごろから気にしている。

そんなヘルスメーターに飼い猫がちょこんと載っている、そんなどこにでもありそうな何の変哲もない日常の風景を切り取っている。 この句のポイントは、そういう日常風景と「文化の日」という国民の祝日である、異質な特別な日との取り合わせにあると思われる。

 

 「文化の日」といえば、学問、科学、芸術、芸能、文芸、などのあらゆる分野で最高峰に達した人に「文化勲章」が贈られるという、文化・文明の意識を国民のみんなが持つための特別な日である。 そんな特別とは、全く無関係な「猫の載るヘルスメーター」、それでも、もしかしたら猫も多少は健康を気にして、文明の利器である「ヘルスメーター」を利用しているかもとも思う、ちょっと笑える光景を取り合わせた面白さがそこにある。

 

ではなぜ「文化の日」なのか、「子供の日」でも「海の日・山の日」でも「成人の日」でも「天皇誕生日」でもなんでもいいのだが、「文化」という人間にとって特別に「崇高」と思われる「高みにある事象」と、敢えて「ありふれた日常」という、かけ離れたものとをぶつけ合ったということが、この句の最大の高評価につながったのだろう。

俳句は「意外性」が一つの大きな評価のポイントである。 

全部が当たり前では、「それがどうしたの?」となるだけで、面白くもなんともないのだ。

ヘルスメーターに載っているのが「猫」であることも一つの意外性であるし、たとえば、

もし、この句が「妻の載るヘルスメーター春日和」であれば、ただの凡句でしかない。

 

この句は特別に変わった奇抜な言葉も遣っていないし、哲学的な深みを狙ったものでもない。 個々の五七五の言葉自体は、それぞれありふれたものだけだ。

しかし、全体として見たとき、下五の「文化の日」がこの一句全体を「高み」へと押し上げて、ある種、崇高な雰囲気をもって締めくくられていることに気が付く。

これはもちろん作者の意図であるし、そこの狙いが見事にはまったといえる。

最優秀に選ばれた理由もまさにそこにあるといってよかろう。

伊藤園新俳句大賞」の評価の基準にぴたりと、はまったといっても過言ではないのだ。

 

俳句について その8

私の俳句の勉強法は、他人の俳句を批評してみることである。

ネット上にも色々の「ネット句会」があって、投稿された句を見る

ことができる。 プロの俳人の句が上手なのは当たり前であり、

いわゆるアマの句が、私の批評の対象に値するのである。

アマでも中には「これは上手い」と感心する俳句がたまにはある。

それも自分の俳句作りに大いに参考になる。

 

私は「伊藤園お~い お茶 !! 新俳句大賞」の大ファンである。

いつも、この入賞句を自分なりに批評をしてみる。

このとき、本人のコメントとか、審査員の批評は初めに読まない。

もちろん入選句だから、みんな素晴らしく、ケチのつけようがない

のではあるが、作者の思いに入り込んでみたり、どこが高評価

になったのかとか、もしかしたら、こうするともっと良くなる、とかを書く。

 

そして後から、作者のコメントや審査員の「誉め言葉」を読む。

これがズバリ当たっていると大変に嬉しいし、自分の気が付か

なかったことが書いてあれは、これもまた勉強になる。

 

俳句について その7

俳句はともかく、実体験、自分の身辺の出来事を詠むのがいい。

人はともすると、夢物語や想像、雄大、理想などの「綺麗箏」とか、

あるいは深い、精神性に富んだ、哲学的な感じのする俳句に

憧れるが、自分が思うほど他人は、そんなことに感動してくれない。

 

どこにでもありそうでいて、しかしちょっとした想定外、意外性のある

出来事に人は感動を覚えるものなのである。

俳句にとってこの「意外性」というのは大変に大事な要素である。

たとえそこに、作意を感じたとしても「へえ~、そう来たか、やられたな」

という、この面白さを期待する人は、私を含め案外に多いのである。

 

こういうことを言うと、人はよく「奇をてらう」という言い方をして嫌うもの

だが、そうではない。 そんなにびっくりするほどの「奇」はいらないのである。

マジックで言えば「Mr.マリック」はいらない「マギー司郎」で十分なのだ。

特に最後の下五を「どんでん返し」で、締める俳句が一番喜ばれる。

 

俳句について その6

私も、もちろん最初は芭蕉そして、子規の句が好きで憧れました。

今でもこのようないわゆる伝統的俳句にしがみついている人は、

いっぱいいます。 たとえばプレバトの梅沢さんのように。

 

さらには井泉水、放哉、山頭火などの自由律も好きになりましたし、

草田男、楸邨、波郷などの人間探求派も好きになりました。

いわゆる現代俳人と呼ぶのはどのあたりからなのか

よくはわかりませんが、兜太以降、かなり感覚的にも新しい時代が

来ているという感じがします。

 

口語体で、しかも現代語、流行語、若者語を織り交ぜて、率直に

心の内を表現する俳句が大衆に受け入れられる世が来ている

という気がしています。

その代表格が「伊藤園お~い!お茶新俳句大賞」だと思います。

俳句甲子園」なども、この傾向をさらに推し進める存在です。

私もこういう新しい俳句に親しみを感じますし、自分の感性に合って、

いるという気がしています。

 

俳句について その5

俳句に限らず、全ての「言葉の文芸」に共通して必要なものは、

「感性」と「表現技術」です。

 

「感性」は他人に学ぶものではありません。

自分だけが先天的に、後天的に身に着けて持っている独自の「感覚」です。

誰にも学ばずに、自分の中から湧き上がってくる自然水みたいなものです。

誰かと似ているとか、誰かと共感できる、響き合えるということは、もちろん

ありますが、誰かの真似をしても、所詮それは自分のものにはなりません。

 

「表現技術」には「理論・理屈」があります。

誰にでも共通して納得・理解できるものです。

これは大いに先人に、他人に学ぶべきです。

 

俳句を始めるとき「先ずは歳時記・季語集を買ってきて季語から学べ」という

人がいますが、私はそんなことはしませんでした。

季語を使いこなす、季語に拘るのは、「表現技術」があるレベルに

達してからで十分です。

初めは季語などない五七五の「リズム詩」で全くかまいません。

俳句は自分だけが、わかっていてもだめなのです。

自分の意思・思いが他人に伝わってこそ価値があるのです。

 

他人に思いを伝えるためには、他人に伝わるように、しかもそれを

インパクトをもって伝わるように、書かなければなりません。

そのためには、自分がこの句を詠む立場の他人になってみる、

すなわち「客観的視点」が最も大切なのです。

それがまず俳句をものにする基本中の基本です。

 

俳句について その4

私は俳句作りを初めて5年ほどになりますが、

その間、作風もかなり変わりましたし、好きな俳句も

かなり変わってきました。

 

始めたきっかけは、やはりというか「プレバト」です。

プレバトは初めからずっと毎週見続けてきましたが、

夏井先生からは多くのことを学びました。。

最初は梅沢派でしたが、今は東国原派という感じです。

 

私は、俳句は今新しい時代に入ったと思っています。

芭蕉だって子規だって彼らが活躍した当時は、それが

新しく新鮮にみんなが感じたから、こそだったのです。

今の時代には、みんなが今の風を感じる俳句が必要です。

 

感覚も言葉もすべて変わりゆくものです。

伝統も保守も大事ですが、改革も発展も大事です。

いつまでも古臭い「季語」だけにこだわらず、

新しい「季語」を作るべきだし、俳句に必要なのは、

季節そのものではなく、あくまで「季節感」なのです。

 

人間が五感で、いや六感も含めて感じる現象そのものが、

「季節」なのですから、暦の季節だけ、そして「季語」という

言葉だけに拘ることなどないと、私は思っています。

たとえば季節感で言うなら「戦争や闘争」は冬でしょうし、

「平和や幸福」は春だということです。